HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲4 Zimmer

4 生まれなかった命


「美樹! ぼく、もっといっぱいアイが欲しい!」
唐突に、ルイが言った。
「愛? それなら、いっぱいあげるよ」
美樹は彼をぎゅっと強く抱いた。
「ちがうよ。ぼくが欲しいのはアルファベートの積み木のアイだよ」
「アイ? えーと、ドイツ読みで言うとイーのことね」
「うん。当たり!」
ルイは時々、ドイツ語や英語で何と言うのかというクイズを美樹に出した。それならば、自分が勝つことが多かったからだ。
「でも、アイがいっぱい欲しいってどうするの?」
「だって、アイがいっぱいないと文が作れないの」
立体文字で単語を作るのが楽しいらしく、ルイは積み木に凝っていた。
「いいよ。じゃあ、もっとたくさん買ってあげる」
「ありがとう!」

その時、家の電話が鳴った。
「ぼくが出る!」
彼は急いでそちらに走って行った。最近は、電話が鳴る度、自分が出ると言って効かないのだ。
「はい。眉村です」
彼はもっともらしく応答している。それを美樹は微笑ましく見つめていた。
「えーと、それは……」
彼がこちらを見て言った。
「ハンスってぼくのことですか?」
美樹が頷く。
「はい。そうです。いいですよ。ぼく、出来ます」
美樹はその相手が誰なのか知ろうと近づいた。
「はい。大丈夫です。ぼく、やってみたいです!」
そう言うとルイは電話を切った。
「ルイ、今の電話、誰からだったの?」
「知らない。でも、ぼくにピアノを教えて欲しいんだって……。ぼくのこと、先生って言ったよ」
「教室の希望者かしら? でも、どうしよう? 今はピアノ教室もお休みしてるし……」

「ねえ、早くアイを買いに行こうよ」
「うん。でも、ちょっと待ってね」
美樹はジョンに連絡した。外出する時には必ずそうすることになっていたのだ。
――「OK。5分で支度する」
「その後、何か進展はあった?」
――「ああ。吹雪の名字を突き止めた。芹沢吹雪。彼はやはり藤ノ花高校の生徒だった」
「すごい。どうやってわかったの?」
――「飴井の知り合いの高校生が写真を提供してくれたんだ。それを見た結城が間違いないと証言した」
「進ちゃんの知り合い? 探偵さんの仕事ってのも幅広いのね」
――「でも助かったよ。何しろ情報が何もなくてね。写真に写ってしまったのは、連中にとっては想定外だったんじゃないかな?」
「想定外?」
――「闇の連中にとってはね」

「それが、今度の事件に関係していると思う?」
――「今のところ繋がりは見出せない。ただ、例のナイフは菘の物かもしれないとアルモスが言っている。12月の夜、ハンスに襲い掛かって来た時、ナイフを振りかざしていたそうだから……」
「ナイフで襲われたの? わたし、何も聞いていないよ」
――「心配させたくなかったんだろう。それに、実力は差があり過ぎて、彼はそのまま見逃してやったそうだから……」
「見逃したって……。自分を殺そうとした相手なんでしょう? 考えられないわ」
――「それが彼の流儀なんだろう。だから、妙に引っ掛かるんだ。名簿から消されたことといい、菘も既に消されている可能性が高い。だが、それがハンスでないのなら、誰が彼女を殺したのか」

「例のサイクロプスって奴じゃないの?」
――「時期が合わない。菘の名が消されたのは昨年のうちだ。が、サイクロプスが来日したのは今年。しかもたったの1日。標的を仕留めたらすぐに撤退する。抜け目ない男さ」
「ルイが片目のだるまを見て怖がるの。何かを想起させるのではないかしら?」
――「なるほど。では、彼の記憶が回復する可能性は高いかもしれないね」
「でも、逆に思い出したくなくて、殻に籠もってしまうかもしれない」
――「その可能性はもちろん否定出来ない。しかし、彼ならきっと復活するさ。それまでは僕達のガードが必要だ。どうやら支度が調ったようだね。今、玄関前に着いたそうだ」
彼が言うのと同時に玄関チャイムが鳴った。

「一平君!」
ドアを開けると川本が一人で立っていた。
「あは。何だよ、その顔。俺じゃ頼りないって思ってんの?」
「いいえ、そうじゃないけど……」
美樹は言い淀んだ。いつもなら、護衛は能力者のマイケルが担当していたからだ。
「心配すんなって……。こう見えても俺、体力には自信あるし、何しろ国際警察の一員なんだからな」
「知ってるよ。でも、今日は進ちゃんは一緒じゃないのね」
「ああ。進は別の仕事あんだって……。用事はいつものショッピングモールだろ? 遅くならないうちにさっさと行って来ようぜ」
そうして、川本が運転する車に乗って、二人は買い物に出掛けた。

「あっ! ハンス先生だ!」
店でおもちゃを見ていると、幼稚園児の遙が駆け寄って来た。
「もう元気になったみたいだな。いつからピアノ教えてくれんの?」
遙は人なつこく話し掛けて来た。
「先生……?」
ルイはきょとんとして、その男の子を見つめた。
「あなたは、子ども達にピアノを教えていたのよ」
美樹が言った。
「ぼくが教えるの? そうか。さっきの電話でも、ぼくのこと先生って言ってたよ。すごーい! ぼく、先生になったんだ」
ルイがはしゃぐ。

「それで、いつから教えてくれんのさ?」
遙がじれったそうに言う。
「いつでもいいよ」
ルイが言った。
「じゃあ、今日!」
遙が叫ぶ。
「いいよ。ぼくの家に来る?」
そして、二人は通路を駆け出した。
「あっ! ルイ! 駄目よ! どこに行くの?」
遙の母に事情を話していた美樹が慌てて後を追う。

「ハンスもチョコレートもらった?」
催し物のコーナーの前で遙が訊いた。
「どうしてチョコレートもらうの?」
「だって、今日はバレンタインデーじゃないか。女の子が好きな男の子にチョコレートくれる日だろ? おれ、百合ちゃんと真希ちゃんからもらったよ」
「君もあげるの?」
「うん。ホワイトデーに……。でも、本命はどっちにしようかな?」
遙はもっともらしく考えていた。

そんな遙を母親が迎えに来た。
「すみません。もう、遙、お店の中をはしりまわっちゃ駄目でしょ? それに、ハンス先生はまだ怪我が治っていないのよ」
母親が窘める。
「えーっ? だって、こんなに元気じゃん」
子どもがごねる。
「うん。ぼく、元気だから……。今日が駄目なら、明日来てもいいよ」
「ほんと?」
「うん」
母親は困った顔をして美樹の方を見た。
「あの、遊びに来てもらうってことなら如何でしょう?」
「ご迷惑ではありませんか?」
「ルイも退屈しているので助かります。それに、刺激されて記憶が戻るかもしれませんし……」
「じゃあ、明日の3時半に伺います」
そう言って遙と母親は帰って行った。危険がない訳ではなかったが、自宅ならセキュリティが整っていた。

「美樹、ぼくのお金ある?」
「ええ。こないだ、お父さんにおこづかいもらったでしょう? ほら、くまさんのお財布の中に2千円入ってるよ」
「じゃあ、ルイはこれでお買い物するの。美樹はお外で待っててね」
そう言うと彼は売り場に駆けて行った。
「大丈夫かしら?」
「俺が見てるよ」
川本が言った。

ルイはハートと花の形のチョコレートを取って店員に渡した。
「へえ。それを美樹にプレゼントすんの?」
川本が訊いた。
「おまえ、どっかに行けよ!」
ルイが言った。

「心配すんなって、俺、ちゃんと内緒にしててやるからさ」
「ぼく、ガイストは嫌いなの!」
ルイが言った。
「何言ってんだよ、おまえ……」
「行っちまえ!」
「おいおい、酷いな。俺はおまえの護衛をしてやってんだよ」
「いやだ! あっちに行け!」
ルイが彼を押した。
「ははは。よせよ。今のおまえじゃ無理だよ」
軽くあしらわれて、ルイは川本を睨みつけた。鋭く。刺すような目だった。
「こいつ……!」
凍てつくような感覚に襲われて、川本は一歩下がって身構えた。が、次の瞬間、ルイはわっと声を上げて泣き出した。
何事が起きたのかと、買い物客達が振り返る。
「おい、泣きやめよ。みんなが見てるじゃないか」
川本が触れようとした瞬間、ルイは床に引っ繰り返って泣き喚いた。皆がそこから離れて行く中で、一人手を差し伸べて来た者がいた。

「ルイ君、ほら、何も怖いものなんかないよ。僕を見て」
「誰?」
泣き腫らした目をこすりながら、ルイが訊いた。
「僕は結城直人。君の味方」
「味方……?」
「ほら、これは君の大切な物だろう?」
床に落ちていた赤いリボンの付いた箱を拾って直人が渡す。
「うん。これね、美樹にあげるの」
「そう。きっと彼女は喜んでくれると思うよ」
そう言うと直人はやさしく微笑んだ。

「ほんと?」
「ああ。ルイ君からのプレゼントだもの。一番喜んでくれると思うよ」
彼は半身を起こすとにこりと笑った。直人はそんなルイの涙をそっとハンカチで拭いてやった。
「ぼく、もう泣かない」
「そうだね。君が泣くと美樹さんが悲しむからね」
「うん」
ルイは直人と一緒に店を出た。
「美樹!」
彼女を見つけて駆け出して行くルイ。

「へえ。さすがは先生。子どもをあやすのが随分上手いじゃないか」
川本が来て言った。
「たまたまですよ」
直人は苦笑する。
「能力者が来たんじゃあ、俺の出番は要らないかな」
「そんなことは……。あなたは美樹さんの古いご友人なのでしょう?」
「でも、見ての通り。子どもに嫌われちゃったからね」
「彼は何故あなたをあんなにいやがっていたのですか?」
「さあね。チョコレートのことからかわれて面白くなかったんじゃないの?」
「それだけだったらいいのですが……」
直人は遠慮がちに言った。
「何が言いたい?」
「いえ、多分、僕の思い過ごしでしょう」
駐車場の付近でルイが直人を呼んでいた。
「じゃ、後はよろしく」
そう言うと川本はその場を離れた。

「ルイ。一平君の車はそっちじゃないよ」
美樹が呼んだ。
「いいんだよ。ぼく、直人の車に乗せてもらうの」
そこへ結城がやって来て二人を案内した。
「どうぞ」
直人がドアを開けると、ルイはさっと乗り込んで美樹の手を引いた。
「あの、すみません」
「いいんですよ。僕も頼まれてここへ来たんです」
「それってジョンにですか?」
「ええ。ルイ君の護衛にはやはり能力者がいた方が安心ですから……。僕も出来るだけご協力します」
「でも、学校のお仕事があるでしょう? 無理をなさらないでくださいね」
「大丈夫です。今は空いている時間だったので……」
「うん。ぼくも直人なら大丈夫だよ」
窓の外を見てご機嫌になっていたルイが言った。


そうして、ルイは様々な人々に守られて1ヶ月程が過ぎて行った。
「ルイ? どこにいるの? 今日は病院へ行く日よ」
週に一度、カウンセリングを受けていたが、記憶が戻る兆候はまるでなかった。
「行かなくちゃ駄目?」
ピアノの下からひょいと顔を出して彼が訊いた。
「まあ、そんな所にいたの? うん。先生がね、ルイのお顔を見るの楽しみにしてるって……」
「じゃあ、行ってあげてもいいけど……」
彼は腹這いになって何かを抱えていた。
「そこで、何をしているの?」
「赤ちゃんをあっためてるの」
「赤ちゃん?」
「もうすぐ生まれるんだ。ピッツァとリッツァも協力してくれてるの」
美樹はそちらに近づくと下を覗いた。
「わたしにも見せてくれる?」
「いいよ。でも、そうっとね」
「わかった。そうっと……」
見ると、そこには2匹の猫と彼が抱える卵があった。

「それ、どこにあったの?」
「朝、白神さんにもらったんだよ。お庭で花に水を蒔いていた時、おじさんがくれたの。生み立ての卵なんだって……。まだあたたかかったから、きっと雛が生まれるんだ」
確かに、隣の白神の家では雌鳥を2羽飼っていて、これまでにも何度か卵をもらったことがあった。
「でもね、その卵は雛にはならないのよ」
「どうして?」
「卵の中にも雛になるのとならないのがあるの」
可哀想だとは思ったが、美樹は真実を告げた。

「生まれない卵もあるの?」
「うん」
「それじゃあ、生まれない人間もいるの?」
美樹は一瞬言葉に詰まった。ピアノの影がそんな彼女の視界を斜めに塞ぐ。
「そう。生まれなかった命もいっぱいあるの。でも、そんな卵の中から1つの卵が選ばれてあなたになったの」
「ルイもそうやって生まれたの?」
「そうよ。だから、今、こうしてここにいるってことは、すごいことなんだよ。本当に素晴らしい奇跡なの。今、こうして、わたし達が出会っていることも……」
彼は卵を見つめて考えていた。

「それにね、家には猫さん達がいるでしょう? 猫は爪を立てるかもしれないよ。猫達は遊ぼうとするだけかもしれないけど、爪が当たると雛は死んでしまうかもしれないの」
「死んでしまうの? 母様みたいに……」
「ルイ……?」
思い出したのかと思った。が、彼は言った。
「ぼく、ずっと考えていたの。ほんとは父様も母様も死んでしまったんじゃないかって……。だって、変だもの。誰もぼくを迎えに来てくれないなんて……。ドイツに帰れないなんて……。ぼく、一人ぼっちになっちゃった……!」
しゃくり上げるように彼が言った。
「一人じゃないよ。わたしやルドやマイケル、ジョンだっているし、お父さんやお母さんもいるし……」
「うん。お父さんがね、今度の日曜日に映画に連れて行ってくれるって……。ぼく、楽しみなの」
ピアノの下から這い出して来て言った。
「そうだね。寂しくないよ。」
「うん。きっとお父様やお母様もあの世からルイのこと見守っていると思うよ」
「あの世って?」
「天国みたいな所」
「天国……。そうだね。きっと。あの世から、ぼくのこと見ててくれる」
彼は、ガラスの向こうの空を見上げた。その瞳から流れ落ちた涙が彼の手と卵を濡らした。が、彼女は声を掛けずに待っていた。彼がその悲しみを消化するまで……。


そして、3月。ルイは誕生日を迎えた。
「おめでとう! ルイ」
みんなからたくさんのプレゼントをもらって彼はご機嫌だった。ミニチュアの動物や天体望遠鏡、帆船の模型やぬいぐるみ。籠にいっぱい入ったお菓子や花束、そして、絵本やオルゴール、数え上げればきりがない。
「ぼく、すごくうれしい!」
結城がピアノでハッピーバースデーを弾き、みんなで歌った。ルイはお礼にと言って自分もピアノを弾いた。それは、ショパンの「小犬のワルツ」とリストの「ラ・カンパネルラ」。
その美しい旋律と技巧の見事さに皆がため息を漏らした。
「すごい。8才にしてこんな曲が弾けるなんて、ルイは天才だな」
父が言った。
「やーね。今さら……。ルイは天才なのよ」
美樹が言う。
「でも、一つ間違っています。ぼく、今日から9才になりました」
ルイが言った。
「確かに」
皆は盛り上がり、一斉に拍手した。誰もがルイのことを認め、もし、このまま記憶が戻らなかったとしても、ルイとしてやって行けそうな気がした。

「桜が咲いたら見に行こうね」
美樹が言った。
「桜? トンネルみたいになる?」
「ええ。本当に素敵よ。早く咲くといいね」

その日も平和な一日が終わろうとしていた。美樹は台所で夕食の支度をしていた。その間、ルイはリビングのテーブルの上にアルファベートの積み木を並べていた。ソファーでは猫達が丸くなって眠っている。
「やっぱりアイがいっぱい必要なんだ」
彼はぶつぶつ言いながら時間を掛けて、何度も作り直していた。
「えーと、CとHって、どっちが先だったかなあ」
カーペットの上にはさっきまで遊んでいた別のおもちゃが転がっていた。絵本で作った家からはぬいぐるみのくまが顔を覗かせ、地図のパズルも半分は箱の外に散らばっていた。

「美樹……」
数分後、台所に来たルイが言った。
「ぼく、気分が悪い……」
「どうしたの? 大丈夫?」
驚いた美樹がその額に手を当てる。
「熱い……!」
美樹は慌てて体温計を持って来ると彼の熱を測った。
「39度。どうしよう。インフルエンザかしら? すぐにお医者へ行かないと……」
美樹は急いでジョンに連絡を入れた。しかし、その日に限って電話が繋がらない。見ると、ルイはソファーでぐったりしている。
「救急車を呼んだ方がいいかしら? でも、そんなことしたら目立っちゃうし……。タクシーで往復すれば大丈夫かな?」

苦しそうにしているルイを見ると、彼女はすぐに行動を起こさなければと決意した。タクシーを呼び、急いで上着を取って来て彼に着せ、自分も2階を駆け上ってコートとバッグを持つ。ふと見ると、去年のクリスマスにハンスがくれたモデルガンの箱が目に入った。それを開けると彼女はじっと見つめた。
「ちょっと見なら、これだって本物に見えるかも……」
能力者にそんな脅しが効くかどうかは未知数だったが、何もないよりはましだと考えて、それもバッグに入れた。
「なるべくだったら使わずに済みますように……」
それから急いで階下へ行くとルイの様子を見た。ふと見ると、テーブルの上にはアルファベートの積み木が並べられ、文が作られていた。
Miki. Ich liebe dich. (美樹、愛してる)
それを見ると、彼女は胸がじんと熱くなるのを感じた。
「ルイ……。ありがとう」
愛しくて、この子のためなら一生を捧げてもいいとさえ思った。

タクシーはすぐにやって来た。
「美樹……。苦しいよ。息が上手く吸えないの」
ルイはぐったりとしていた。
「大丈夫よ。すぐに着くからね。そしたら、お医者さんに治してもらおうね」
病院に向かう車の中で、美樹は何度も囁いた。そして、その背を撫でて励ました。